鬼越トマホークの良ちゃんこと坂井良多が、アンジャッシュ渡部建をX上で激しく批判した騒動では、渡部だけでなく、坂井の言葉遣いにも厳しい視線が向けられた。
「ゴミ」「守銭奴」といった表現に対し、毒舌ではなく単なる人格攻撃ではないか、本人の関与を確認する前に言い過ぎではないかという反応も目立った。
だが、鬼越トマホークに強い悪口を言うなというのも、どこか奇妙な話である。
遠慮なく相手の痛いところを突き、芸能界の建前を壊すことは、彼らが注目を集めた大きな理由の一つだった。むしろ、誰も言えないことを言う危うさこそが、鬼越の持ち味だったはずだ。
それでも今回は、同じようには笑われなかった。
では、毒舌とただの悪口は、どこで分かれるのか。
言葉の強さだけでは説明できない、その境界線を考えてみたい。
TikTok公認提携・未経験OKのライバー事務所【ReStart】毒舌をめぐる強者と弱者の逆転
渡部は、かつての強者から“やられる側”へ落ちた
不祥事以前の渡部は、芸能界の中でも明らかに強い側にいた。
グルメ、司会、情報番組、女性人気。知識があり、清潔感があり、仕事ができる。芸人として笑われるよりも、場を回し、人を評価し、正解を提示する側に近かった。
しかし不祥事によって、その立場は一気に崩れた。
活動再開後も、かつての人気司会者として簡単に元の位置へ戻ったわけではない。『チャンスの時間』などでは、自身の過去を繰り返しいじられ、厳しい言葉を浴びせられ、徹底して笑われる側へ回ってきた。
もちろん、それも芸人としての仕事である。
それでも、以前の渡部が持っていた「余裕のある成功者」という印象は薄れた。現在は失敗を背負い、共演者に追い込まれ、ときに惨めな役回りまで引き受けながら、それでも場に残る人物として見られるようになった。
かつて他人を評価する側だった男が、いまは評価され、裁かれ、笑われる側にいる。
その変化は大きい。
今回、坂井が渡部の過去まで持ち出して激しく攻撃したとき、視聴者の一部が感じた違和感は、単に「渡部がかわいそう」というものではなかったのだろう。
むしろ目についたのは、すでに立場を失い、長く笑われる側に回ってきた渡部に対し、坂井が自分を“裁く側”に置いたことだった。本人の関与すら確認されていない段階で、過去の不祥事を持ち出し、「ゴミ」「守銭奴」と断じる。その姿は、権力に噛みつく毒舌芸人というより、傷を抱えた相手を上から査定する強者の驕りに見えやすかった。
渡部が完全に許されたわけではない。ただ、以前のような成功者ではなくなった渡部を前にしてなお、自分だけは相手を断罪できるという坂井の態度が、毒舌よりも傲慢さとして受け取られた。
今回の反発は、渡部への同情だけでなく、坂井が無自覚に“強い側の論理”で振る舞っているように見えたことから生まれたのかもしれない。
鬼越トマホークは、いつの間にか“強い側”になった
渡部が「評価する側」から「評価される側」へ落ちていった一方で、鬼越トマホークは反対の方向へ進んできた。
鬼越は、もともとやられ役を中心にした芸人ではない。
代表的な喧嘩芸も、体格のいい二人が取っ組み合いを始め、止めに入った芸能人へ容赦のない一言を浴びせるというものだった。構図としては、最初から鬼越が相手へ圧をかける側にいる。
それでも笑いとして成立したのは、「喧嘩を止めたら、なぜか本音を言われる」という明確な型があったからだ。発言の内容がどれだけきつくても、あくまで決められた芸の中で放たれる一言だった。言われた側もリアクションを返し、その場にいる全員で一つの笑いを作ることができた。
だが、現在の鬼越は、もはやその型の中だけにいる芸人ではない。
YouTubeでは芸人の半生や業界評を聞き、先輩や後輩の評判を語り、誰が面白いのか、誰が売れるのか、誰が業界で嫌われているのかを論じる。芸能界の人脈や裏事情にも詳しく、いつの間にか他人を評価し、値踏みする側の芸人に見えるようになった。
本人たちが実際に大きな権力を持っているかどうかは、それほど重要ではない。
視聴者から見て、業界内に足場があり、発言力があり、他人の価値を判定できる側に映ることが重要なのだ。
そんな鬼越が芸の型を外れ、X上で一人の相手を「ゴミ」「守銭奴」と断じれば、かつての喧嘩芸とは意味が変わる。しかも、その相手はかつての成功者ではあっても、現在は長く笑われる側に回ってきた渡部だった。
この組み合わせによって、坂井の言葉は権力に噛みつく毒舌ではなく、すでに弱い位置へ落ちた相手を、業界内に足場を持つ側が裁いているように見えた。
坂井自身は、昔と同じように遠慮なく本音を言ったつもりだったのかもしれない。
しかし鬼越は、売れたことで言葉の立ち位置まで変わっていた。
かつては芸能界の建前を壊す危険な異物だった二人が、いまでは芸能界の内側から他人を査定する存在に見える。その変化に本人たちの感覚が追いついていないことが、今回の傲慢さという印象につながったのではないだろうか。
永野の毒舌は、本人の醜さまで笑いになる
永野も、芸能界や人気者に対して強烈な悪口を口にする。だが永野の毒舌は、相手を切ったところで終わらない。
成功した芸人への嫉妬、芸能界に対する恨み、自分を評価しなかった者への執念。永野は、自分の狭量さや格好悪さまで隠さず差し出す。
そのため、誰かを批判していても、永野自身が勝者には見えない。
高い場所から相手を裁いているのではなく、長く報われなかった人間が、積もり積もった感情を爆発させているように映る。視聴者は、批判されている相手だけでなく、嫉妬にまみれた永野本人も同時に笑うことができる。毒が一方向にだけ流れないのである。
永野の悪口が笑えるのは、言葉が鋭いからではない。
毒を吐いた結果、自分自身の情けなさまで露出してしまうからだ。
ウエストランド井口は、怒るほど小さく見える
ウエストランド井口も、他人への不満を激しくまくし立てる。
芸人、ファン、流行、恋愛、テレビ。あらゆるものに文句を言い、時には本気で怒っているようにも見える。
しかし井口もまた、相手を一方的に殴る強者には見えにくい。
小柄な体で顔を真っ赤にし、周囲から止められ、さらに言い返される。話せば話すほど、井口自身の余裕のなさや報われなさが浮かび上がる。
売れた後でさえ、「成功者の説教」にはなりにくい。
むしろ、成功してもなお満たされない人間の悲鳴に見える。
『チャンスの時間』のような場でも、井口は他人を批判する側でありながら、同時に番組からいじられ、追い込まれ、本人の必死さを笑われる側でもある。
永野と井口に共通するのは、毒舌の安全圏に立っていないことだ。
相手を傷つける可能性があるのと同じくらい、自分自身も笑いの材料として傷ついている。
ニューヨークは、自分たちの毒が嫌われると察した
鬼越を考えるうえで、ニューヨークは重要な比較対象になる。
ニューヨークも、以前は今より明らかに毒が強かった。素人、若手芸人、ネット上の流行、芸能界の人間関係。相手を少し斜めから眺め、意地悪な言葉で切ることが彼らの持ち味だった。
しかし、その毒は必ずしも視聴者に受け入れられなかった。
ニューヨークは、見た目や話し方を含めて“強者男性”に見えやすい。
屋敷裕政は冷静で社交的であり、芸能界の仕組みを理解して立ち回っているように映る。嶋佐和也も、追い詰められた弱者というより、余裕のある側から無遠慮なことを言う人物に見えやすい。
その二人が他人を笑えば、負け犬の反抗ではなく、スクールカースト上位の人間による品定めのように映ってしまう。
ニューヨークは、その危うさを比較的早く察したのではないか。
毒を完全に捨てたわけではない。だが、それを前面に出すことは減り、司会や進行、若手芸人を受け止める役割、自分たちが企画の中で失敗する場面へと比重を移していった。
ニューヨークが現在の地位にいるのは、毒舌を貫き通したからではない。
自分たちは永野や井口と同じ毒の使い方をすれば、視聴者から反感を買う側だと理解し、封じる判断ができたからではないか。
毒を抑えたことは、芸人として丸くなったというより、自分たちの見られ方を正確に読んだ結果なのだろう。
弱者になった渡部と、強者になってしまった鬼越
今回の騒動を象徴しているのは、渡部と鬼越の立場が、いつの間にか逆転していたことだ。
渡部は、かつての成功者から転落し、いじられ、笑われ、過去を背負う側になった。
鬼越は、かつて芸能界の建前を壊す危険な存在だったが、売れ、人脈を持ち、他人を評価する側に見えるようになった。
坂井本人の意識としては、いまも権力に噛みつく毒舌芸人だったのかもしれない。
だが視聴者から見れば、今回はそうではなかった。
弱くなった渡部を、強くなった鬼越が殴っている。
その構図に見えたからこそ、言葉の内容以上に反発が起きたのではないか。
毒舌芸人にとって恐ろしいのは、売れないことだけではない。売れた結果、自分の言葉の意味が変わってしまうことだ。
強者男性に見えた瞬間、毒舌は査定になる
同じ悪口でも、誰が言うかによって意味は変わる。
弱く見える人物が強者を批判すれば、反抗や抵抗に見える。
強く見える人物が傷のある相手を批判すれば、威圧や追い打ちに見える。
永野の毒舌は、長く芸能界の外側にいた人間の怨念に見える。井口の毒舌は、売れても満たされない人間の不満に見える。渡部は過去を背負い、現在は笑われる側へ回っている。
一方、鬼越トマホークは、体格がよく、芸能界の事情に詳しく、YouTubeでは先輩や後輩の評判を語り、他人の価値を査定する立場にも見える。
本人たちが実際に芸能界の強者かどうかは、それほど重要ではない。
視聴者から、強い側に見えることが問題なのだ。
その状態で「こいつは面白くない」「あいつは終わった」「ゴミ」「守銭奴」と言えば、それは弱者の毒舌ではなく、業界内に足場を持つ人間による格付けに近づいていく。
強者男性には、毒舌は許されにくい。
それは公平ではないようにも見える。だが、毒舌という芸はもともと、下から上へ噛みつくことで反抗として成立してきた。
芸人が売れ、知名度を得て、人脈を持ち、発言力を強めるほど、その言葉は下からの反抗ではなく、上からの査定へ変わっていく。
成り上がるごとに、芸人は毒舌を言う力を手に入れる。
同時に、毒舌を言う権利を少しずつ失っていく。
その矛盾こそ、毒舌芸人にとって何より難しいところなのだろう。
あわせて読みたい関連記事




コメント