SNS上で、6月30日に池袋駅東口へオープンした「ヨドバシカメラ マルチメディア池袋」をめぐり、店内で排泄物が見つかったとされる“脱糞騒動”が拡散している。
地下1階から地上6階まで、総売場面積約33,000㎡を誇る真新しい巨大空間。その華やかな開業の裏で、「店内で2日続けて脱糞が起きた」「エスカレーターが停止した」「空気清浄機が全開になっている」といった投稿の要約がYahoo!リアルタイム検索などで出回り、人々の目を引いた。
ただし、現時点でヨドバシ側の公式発表や大手メディアによる確認報道があるわけではない。あくまでX上の目撃談や、SNS発の噂に過ぎない。
ゆえに、この件を「事件」と断定するのは危うい。 だが一方で、この未確認の話題がここまで爆発的に拡散したこと自体に、現代の都市空間が抱える決定的な欺瞞(ぎまん)が表れている。
オープンしたばかりの巨大商業施設。眩いほどの照明。整然と陳列された最新家電。徹底して清潔であることが義務付けられた空間。 そこに、もっとも人間くさく、もっとも根源的な有機物が突然入り込んだ(あるいは入り込んだと想像された)。
人々が驚き、嫌悪し、それでも目を離せなかったのは、単に「汚い話」だったからではない。 高度に発展した都市が、その機能のすべてを懸けて見えない場所へ隠蔽してきた「人間の根源的なバグ」が、一瞬だけシステムの裂け目から露呈してしまったからである。
水回りのトラブルにお悩みの方は、水道救急センターにおまかせ!漂白された巨大空間に突如現れた「未確認のバグ」
都市は、人間の「肉体」を隠蔽する装置である
現代の大型商業施設は、つねに漂白されていなければならない。 床は磨き上げられ、照明は影を消し去り、空調は完璧に管理され、あらゆるノイズとにおいは排除される。そこにおいて、人間は生身の動物ではなく、ただの「客」という記号として存在している。
スマホでスペックを検索し、ポイントを貯め、電子決済で支払うだけの、清潔な消費マシーン。
しかし、その「客」は同時に、生々しい臓器を抱えた肉体でもある。 突然腹を壊す。汗をかく。吐き気を覚える。老いる。病む。そして時に、括約筋の限界を迎え、トイレに間に合わないこともある。
都市は、その残酷な事実を徹底的に見えない場所へ押し込めている。トイレは店の最奥に隔離され、清掃は人目につかない時間に行われ、においは化学的に消臭され、汚れは即座に拭き取られる。
そうして私たちは、初めから「無菌状態の社会」に生きているような錯覚に陥っている。だが本当は、自然と清潔な社会が存在しているわけではない。誰かが、人間の産み出す汚れを黙々と処理し続けているだけなのだ。
「うんこ」は笑えるが、「うんち」は笑えない
この騒動を社会学的に解剖するうえで、見逃してはならないのが言葉の差異である。
「うんこ」と「うんち」。 どちらも幼い言葉に見えるが、それが立ち上げる情景はまったく違う。
「うんこ」は、まだ笑いにしやすい。 小学生男子のギャグであり、ネットのミームであり、勢いで叫べる言葉だ。そこでは、汚物が身体から切り離された「単なるオブジェクト(物体)」として扱われている。汚いけれど、笑える。くだらないけれど、軽い。対象を安全な距離に置き、嘲笑という形で消費するための防御装置として機能している。
一方で、「うんち」は妙に生々しい。 柔らかい響きなのに、むき出しの生活に近い。子どもの世話、介護、体調不良、トイレのにおい、拭くこと、流すこと。「うんち」という言葉には、排泄した人間の体温と気配がべっとりと張り付いている。
だから「うんこの話」と言えば笑えるのに、「うんちの話」になると、急に笑いづらくなる。「うんち」の方が、あまりに人間に近すぎるからだ。
……と、ここまでもっともらしく書き進めてみたものの、よくよく思い返せば『Dr.スランプ アラレちゃん』が木の枝に刺して満面の笑みで持ち歩いていたのは、たしか「うんち」の方だった。普通にポップな笑いになっている。
うんこだろうがうんちだろうが、よく考えたら受ける印象はたいして変わらない。完全に私の例えが不適切だった。深く掘り下げたが、この説はいったん忘れてほしい。
むしろ今回の騒動において、社会学的に真に見逃せないのは「脱糞」という言葉が多用された事実の方である。
これは極めて硬質な言葉だ。個人の哀切な失敗というより、公共空間に対するテロリズムや事件としての響きを持つ。「脱糞」と名付けた瞬間、それは生々しい身体の悲劇から離れ、施設管理や衛生問題、迷惑行為という社会的なインシデントに変換される。
つまり「脱糞」とは、私たちが不快なものから距離を取り、あまりに生々しい現実を社会的な出来事として隔離するための、言葉の防護服なのである。
沈黙の清掃者たち
SNSでは、こうした話題は瞬時にネタとして消費される。「地獄すぎる」「開店早々きつい」「伝説だろ」といった文字が踊る。
あまりにも不条理な事態を目の当たりにしたとき、人間は無理にでも茶化すことで精神の均衡を保とうとする。その心理は理解できる。だが、その嘲笑の裏側には、必ず誰かの物理的な労働がある。
異変を見つけた人がいる。客を誘導した人がいる。エスカレーターを止めた人がいる。清掃し、消毒し、何もなかったかのように売り場の平和を復元した人がいる。
都市の清潔さは、自然の摂理ではない。私たちが普段、大理石のように輝く床や明るい店内だけを見ていられるのは、その裏側に、名もなき誰かの汗、ため息、ゴム手袋、雑巾、次亜塩素酸ナトリウムがあるからだ。清潔とは「汚れが存在しない状態」ではない。「汚れとの終わりなき戦闘を、誰かが代行してくれている状態」のことである。
最後に残る、私たちが引き受けるべき未来
私たちはこれからも、より便利で、より清潔で、より合理的な都市を作り続けていくだろう。
新しいスマートビルが建ち、AIが顧客の動線を分析し、ロボットが巡回し、アプリであらゆる購買が完結する。不快なものやノイズは、かつてないスピードで排除され、見えないアンダーグラウンドへと片付けられていく。その歩みを止めることはできない。
だが、どれほど都市空間の解像度が上がろうとも、ホモ・サピエンスという生物そのものは一切進化していない。
私たちは最新のデバイスを指先で操りながら、今日も胃腸の不調を抱え、衰え、老い、病とともに歩いている。どんなにシステムが洗練されようとも、人間は自らの臓器から逃げられない。
今回の騒動は、真偽はどうあれ、私たちに一つの強烈な事実を突きつけた。
私たちが謳歌しているこの「清潔な社会」は、信じられないほど危うい薄氷の上に成り立っているのだ。
その文明の薄氷がふいに割れたとき、そこに現れるのは、高度なシステムでもAIでもない。弱くて情けない生身の人間と、その惨状を黙って拭き取る誰かの手だけだ。
人間は、誰かに拭かれてこの世に生まれ、誰かに拭かれてこの世を去っていく。 その間にある大人としての数十年間だけ、自分は清潔で、完全に自立し、誰の迷惑もかけずに生きている存在だと思い込んでいる。
だが、それは思い上がった錯覚にすぎない。
私たちは、その薄氷の上で、今日も綺麗な服を着て、すました顔で買い物をしている。 いつか自分自身の腹の底から、その氷を割り、文明の床を汚してしまう日が来るかもしれないという圧倒的な現実から、必死に目を背け続けながら。
もっとも、ここまで大上段に構えて語ってきたが、元はといえば真偽不明のネットの噂である。
あまり深刻に抱え込みすぎず、最後は水に流すくらいでちょうどいいのかもしれない。
うんちだけに。
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