【論考】メスガキはなぜ愛されるのか――生意気な少女が大人を支配できる理由

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「ざぁこ❤ ざぁこ❤ 怒ったならなんか言い返してみなよぉ❤ ……あ、言葉も出ないくらい悔しいんだ?❤」

こちらの顔をのぞき込み、口元だけで笑う。言い返せば喜び、黙ればさらに距離を詰めてくる。平静を装っていることまで見抜くと、自分の勝利を確信したように目を輝かせる。

特別な能力があるわけではない。頭脳で相手を圧倒しているわけでも、権力によって従わせているわけでもない。それなのに、気づけばこちらは言葉に振り回され、反応を観察され、すっかり遊ばれている。

これがメスガキである。

ここでいうメスガキとは、現実の子どもではなく、漫画やゲームなどに登場する創作上のキャラクター類型を指す。小さく、生意気で、自信過剰。相手の弱点を見つけては遠慮なく突き、困った顔や怒った反応を見て、心の底から楽しそうに笑う。

ただ口が悪いだけなら、ここまで一つの類型として愛されることはなかっただろう。メスガキには、私たちがかつてどこかで見たことのある、人を馬鹿にする喜びに満ちた生命力がある。

学校の教室にも、メスガキ的な存在はいた。誰かの服装や話し方を笑い、少しでも空気から外れた人間を目ざとく見つける。相手が困れば困るほど、恥ずかしがれば恥ずかしがるほど、生き生きとしていく。

男性にとってはもちろん、女性にとっても、そうした女子は必ずしも憧れではなかった。むしろ、集団の上位にいる女子の視線や笑い声を、息苦しく感じていた人の方が多いかもしれない。自分が直接何かを言われていなくても、近くで誰かが笑われているだけで、自分まで値踏みされているような気がした。

私たちは、メスガキ的な存在を疎ましく思っていた。それなのに大人になった今、創作の中でメスガキを求めている。

かつて逃げたかったはずの少女の悪意を、なぜ私たちは愛するようになったのだろうか

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創作における「メスガキ」という類型

女子は、閉ざされた空間で強くなる

メスガキの持つ独特の「強さ」を考えるうえで、学校という空間の性質は無視できない。学校は、外の社会から半分切り離された閉鎖空間である。同年代の人間が毎日ほとんど同じ顔ぶれで過ごし、収入や職業といった社会的ステータスとは無関係に、小さな人間関係の中でそれぞれの立ち位置が決められていく。

そこで絶大な力を持つのが、容姿、会話のテンポ、恋愛事情、友人関係、流行への感度といった身近な評価基準である。「誰が格好いいのか」「誰が痛いのか」「誰が空気を読めていないのか」。そうした微細な変化を見つけ出し、言語化し、周囲の「空気」へと変換する力において、女子はしばしば圧倒的な強さを発揮する。

もちろん、すべての女子が強かったわけではない。むしろ、その視線や序列に苦しめられていた女性も多いだろう。ここでいう女子の強さとは、女子全体が男子を支配していたという意味ではない。学校のような狭い集団では、人間関係を読み、他人を評価し、その評価を周囲に共有する能力が、外の社会では考えられないほど大きな権力になりやすいということだ。

腕力や面白さで目立つ男子がいたとしてもその男子が本当に格好いいのか、それとも必死で痛いだけなのかを決めるのは、しばしば女子の視線だった。どれだけ本人が得意になっていても、女子に笑われた瞬間、その振る舞いは「格好いいもの」から「痛いもの」へと変わってしまう。

とりわけ高校生くらいになると、言葉も外見も大人に近づく一方で、まだ仕事や生活の責任には深く縛られていない。女子高生がときに無敵に見えるのも、社会から本格的に評価される前に、自分たちが他人を評価するための言葉だけは十分に手にしているからなのかもしれない。

メスガキの強さもまた、そうした閉鎖空間の中で生まれる女子の強さである。ただし、それは現実の学校生活よりも幼く、無責任で、露骨な形に誇張されている。

誰かに認められたわけでもないのに、相手を勝手に採点し、欠点を見つけては自分の方が上だと信じて笑う。社会の尺度が入り込む前の、小さな世界における評価者としての傲慢さ。その強さだけを凝縮し、いつまでも保ち続けているのがメスガキという存在なのだ。

社会の侵食と相対化される強さ

しかし現実には、学校を卒業すると同時に、閉ざされた場所で成立していた女子の強さは少しずつ相対化されていく。社会には、収入、職業、役職、実績といった、まったく別の容赦ない尺度が入り込んでくるからだ。

教室では「ダサい」の一言で黙らせられた男子が、社会では仕事のできる人間として評価されることもある。会話が下手でも金を稼ぐ人間がいる。異性から好かれなくても、別の場所で自分の価値を築く人間がいる。教室で通用していた物差しは、世界に存在する数多くの物差しの一つにすぎなくなる。

世界が広がるほど、一つの集団が握る評価権は弱くなる。そして女子自身もまた、一方的に他人を評価する側から、社会に評価される側へと回っていく。

仕事ができるのか。愛想があるのか。結婚するのか。子どもを持つのか。若く見えるのか。学校では他人を自由に値踏みしていた者も、会社や家庭や制度の中では、否応なく自分が細かく値踏みされる立場となる。

これは女性が弱くなるということではない。狭い世界で絶対的に見えていたあの強さが、社会の多様な基準によって分解されていくということだ。教室では一言で場の空気を支配できた女子も、社会に出れば理不尽な上司や顧客、そして日々の生活に従わなければならない。自分の感情だけで誰かを笑い、好き嫌いだけで人間の価値を決めるような振る舞いは、次第に許されなくなっていく。

現実の女性は成長し、社会に入り、責任や利害を背負っていく。だが、メスガキだけは成長しない。社会に回収されることなく、いつまでも小さな世界の中心に立ち、他人を勝手に採点し、自分の方が上だと信じ続けている。

現実から消えていくはずの強さが、創作の中にだけ保存されているのである。

メスガキの良さは、感情が生きていることだ

メスガキは感情を隠さない。相手を馬鹿にしているなら、馬鹿にしている顔をする。相手がムキになれば、心の底から嬉しそうに笑う。自分が勝ったと思えば、全身で勝ち誇る。大人のように建前を用意したり、相手のためを思っているふりをしたりはしない。感情と表情の間に、ほとんど距離がない。

大人の人間関係では、相手が何を考えているのか分からないことが多い。笑顔を向けられていても好かれているとは限らず、丁寧な言葉の裏に軽蔑や苛立ちが隠されていることもある。しかしメスガキは違う。軽蔑しているなら軽蔑し、面白ければ笑い、つまらなければ露骨に退屈する。その分かりやすさは乱暴でありながら、大人の人間関係では、相手が何を考えているのか分からないことが多い。笑顔を向けられていても好かれているとは限らず、丁寧な言葉の裏に軽蔑や苛立ちが隠されていることもある。しかしメスガキは違う。軽蔑しているなら軽蔑し、面白ければ笑い、つまらなければ露骨に退屈する。その分かりやすさは乱暴でありながら、大人にとっては奇妙な安心感すら伴う。

しかも、メスガキの行動には現実的な目的がほとんどない。金を奪おうとしているわけでも、社会的な地位を得ようとしているわけでもない。ただ相手の反応を見たい。困らせたい。自分の一言で大人が動揺するところを見たい。その何の利益にもならないことへ、異様な熱量を注いでいる。

誰かを少し困らせただけで、あれほど嬉しそうに笑う。どうでもいい勝ち負けに全力を出し、言い返されればさらに目を輝かせる。その無駄な情熱こそが、メスガキをこの上なく生き生きと見せている。

そして何より、メスガキは誰よりも相手を見ている。本当に無関心な相手を、何度もからかうようなことはしない。反応してほしいから近づき、怒ってほしいから煽り、無視されればさらにしつこく絡んでくる。表面上は見下しているように見えて、その行動の根底には相手への強い関心と執着が満ちている。

「自分を見ろ」「自分の言葉に反応しろ」「自分の存在によって感情を動かせ」。素直に甘えるのではなく、相手を怒らせることで無理やり振り向かせる。そのひねくれた執着こそが、単なる「嫌な人間」にはない愛嬌を生み出しているのである。

あれほど偉そうなのに、力では何もできない

メスガキは、相手を完全に支配しているような顔をする。「ざぁこ」と笑い、怒れば喜び、言い返せばさらに調子に乗る。本人の中では、自分の方が明らかに強い。

しかし、よく考えてみればおかしな話である。

体は小さく、腕力もない。大人が本気で力を使えば、抵抗することさえ難しい。どれほど鋭い言葉を知っていても、抱え上げられれば終わりである。逃げようとしても歩幅が違う。扉を押さえられれば開けられない。高い場所に物を置かれれば、自分では取ることすらできない。

それなのに、彼女たちは目の前の大人を見下し、自分が勝っていると微塵も疑わずにいる。

メスガキの面白さは、この力関係の倒錯にある。現実の力ではどう考えても弱い側が、言葉と態度だけで強い側に立っている。大人が少し顔をしかめただけで、自分の攻撃が通用したと大喜びする。実際には、大人が本気を出していないだけなのだが、彼女にはそれが分からない。

あるいは、どこかでは分かっているからこそ、あれほど好き放題に振る舞えるのかもしれない。

目の前の大人は、絶対に自分を本気で傷つけることはない。力でねじ伏せることも、見捨てることもしない。そう信じているから、弱い体で胸を張り、大人を相手に王様のように振る舞える。

その姿は、強いというよりもひどく無防備である。

自分が守られていることを忘れるほど、相手の優しさを信じきっている。大人が本気にならないことを前提に、その大人を全力で馬鹿にしている。
だから腹が立つのに、どうしようもなく愛おしい。

本当なら簡単に負けてしまう小さな存在が、自分だけは絶対に負けないと思い込み、今日も得意そうに笑っている。
彼女の強さは、大人が本気を出さないことで守られている「かりそめの強さ」かもしれない。けれど、その根拠のない自信と笑顔を前にすると、大人の余裕や理屈などあっさりと崩れ去ってしまう。
力でねじ伏せることなど到底できず、むしろ彼女の底抜けの熱量に呑み込まれ、気づけばすっかり振り回されている。私たちは彼女の弱さを笑いながら、結局のところ、その真っ直ぐな感情に気持ちよく負かされてしまうのだ。

大人の意地悪は、生々しい

とはいえ、現実の学校にいたメスガキ的な女子は、本来なら懐かしむような存在ではない。彼女たちの悪意は実際に人を傷つけたし、何げなく放たれた一言が、被害者の心に何年も残り続けることもある。子どもの未熟さは、傷つけられた側の痛みを軽くする理由にはならない。

それでも、大人になってから改めて振り返ると、子どもの意地悪と大人の意地悪には、決定的な違いがあることに気づく。

大人の意地悪には、常に「生活」と「利害」が絡む。職場での排除、立場を利用した圧力、評判を落とすための陰口、利益を奪うための攻撃。大人は相手を弱らせることで、自分が実利を得ようとする。
しかも、自分の悪意をそのまま表へ出すことは少ない。「相手のためを思って」「仕事だから仕方なく」「みんなが迷惑しているから」。大人は意地悪をするときでさえ、自分が正しい側に立つためのもっともらしい理由を用意する。そこには金や立場や将来が絡み、冗談では済まない湿った生々しさがある。

一方、子どもの意地悪は残酷でありながら、どこまでも未完成だ。相手の反応が面白いから笑う。ムキになった顔が見たいから煽る。場が盛り上がるから、もう一度同じことを言う。悪意はあるものの、それを社会的な利益のために使いこなすほどには成熟していない。

人を馬鹿にする喜びを、あれほど無防備に表へ出す人間とは、大人になるとなかなか出会えない。誰かが困っただけであれほど楽しそうになり、どうでもいい勝ち負けに全身を使い、相手が言い返してきただけで目を輝かせる。何の利益にもならないことに、異様な熱量を注ぐ。

それは決して優しい行為ではない。だが、そこには計算高い大人の悪意からは完全に失われてしまった、奇妙な生命力と純粋さがあるのだ。

私たちは、かつて疎ましかったものを愛している

今の社会では、私たちは絶えず「自分が何の役に立つのか」「どれだけ成果を生み出せるのか」を証明し続けなければならない。

職場では面倒を避けるために本音を隠し、波風を立てないように愛想笑いを浮かべる。その一方で、SNSを開けば、インプレッションを稼ぐためだけの冷酷な石投げが繰り返されている。傷つかないための無難な交流と、数字を得るための計算された攻撃。ベクトルは逆だが、どちらも相手を「血の通った他者」としてではなく、体温も痛みも持たない「無機質な記号」として処理している点では全く同じだ。そこには血の通った対立すら存在しない。相手が誰であるかに関心を持たず、便利な役割や数字を生む素材として消費するだけの、決定的な無関心があるだけである。

だからこそ、メスガキという架空の存在に惹かれる現象には、効率と打算で綺麗に整えられた大人の世界に対する無意識の反動が表れている。

物語の中で彼女たちが放つ「ざぁこ❤」という言葉には、いかなる経済的価値も社会的な生産性もない。収益目的の炎上でもなければ、自分の地位を高めるためのマウントでもない。彼女にとって重要なのは、こちらを打ち負かして実利を得ることではなく、自分の放った一言で目の前の相手が怒り、恥ずかしがり、平静を失うことである。つまり、その悪意は目的があまりにも個人的で、社会的にはあまりにも役に立たないのだ。

SNSの悪意が、顔の見えない群衆からたまたま目についた標的へと投げつけられるものであるなら、メスガキの悪意は徹底してあなたに向けられている。彼女は肩書も年収も実績も見ていない。社会にとって有用かどうかにも関心がない。ただ反応が見たい。こちらが感情を見せるまでしつこく顔をのぞき込み、何の利益にもならないことに惜しみなく時間と熱量を注ぎ込む。

それは優しさではない。慰めでも、肯定でもない。だが、決して無関心ではない。

彼女は相手を傷つけて利益を得たいのではなく、ただ相手の中にある生々しい感情に触れたいのだ。その方法を知らないから、煽り、笑い、怒らせることで強引にこちらへ手を伸ばしてくる。その不器用で過剰な呼びかけが、もっともらしい慰めの言葉より深く、大人の孤独へ入り込んでくる。

私たちはなぜ、かつて忌み嫌ったはずの少女の悪意を愛するのか。

それは、あらゆる関係が効率化され、人間までもが機能と数字に置き換えられていく世界で、彼女だけが何の得にもならないほど執拗に、こちらを「一人の人間」として扱ってくれるからである。

「ざぁこ❤ ざぁこ❤ 怒ったならなんか言い返してみなよぉ❤」

その幼く残酷な声には、励ましも赦しもない。ただ、「お前が反応するまで、私はここにいる」という一方的な執着があるだけだ。

その小さな悪意の前に敗れるとき、私たちは社会にとって有用な人間である必要から、ほんの一瞬だけ解放される。立派な大人である必要も、冷静である必要もない。腹を立て、恥ずかしがり、言葉に詰まる、ひどく不格好な一人の自分へと引き戻される。

彼女たちの「ざぁこ❤」は、人間の価値を否定する言葉でありながら——役に立つことによってしか価値を証明できない時代から、私たちを救い出す福音でもあるのだ。

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